日本・台湾関係史
鎌倉時代(13世紀)
文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)のモンゴル帝国による二度にわたる日本侵攻作戦いわゆる「元寇」が失敗に終わると、日本から撤退したモンゴル軍は台湾島を迂回して澎湖諸島に駐留し、澎湖巡檢司を設置した。設置の目的は三度目の侵攻を企図してのものだったとされ、台湾島を領有後、そこを足がかりに再度の日本侵攻作戦の構想があったと言われている。
室町時代(14世紀~16世紀)
台湾の存在がいつごろから認識されていたかには諸説があるが、澎湖諸島については少なくとも元代には巡検司が設置され福建省泉州府に隷属していたとの記録が残る一方で、台湾島本土については明代になっても澎湖諸島ほど重要視されず、近域を往来する船舶の一時的な寄港地、もしくは中国大陸沿岸部および朝鮮半島沿岸部で活動していた海賊・密貿易の集団いわゆる「倭寇」のうち後期倭寇の根拠地程度の認識にすぎず、もはや領土として見なされていなかった。
明朝は建国当初より朝貢貿易と海禁政策により領民の自由な海上活動を厳しく制限しており、澎湖諸島の対岸にある中国大陸の福建では人口の増加や地理的条件から耕地に制約があるため福建の民は澎湖に生活の場を求めざるを得なかったが、澎湖諸島へ移り住んだ者は本地に強制送還されることもあったという。しかし、明朝中期になると海禁政策の緩和などから澎湖諸島への漢民族の移住が定着化し、これがさらに澎湖諸島を通じた台湾と中国大陸との接触を促し、台湾は次第に漢民族の生活の場だけではなく、倭寇や漢民族の海賊の活動が活性化していった。台湾を拠点とした海賊として、顔思斉・林道乾・曽一本・林鳳らがいた。
朝貢貿易と海禁政策は表裏一体であり明朝の対外政策の一指標であったが、嘉靖年間(1522年~1566年)に諸外国との公的貿易(すなわち朝貢を前提とした勘合貿易)が相次いで中断され衰微していった。こういった背景から「倭寇」らの密貿易が増えたことにより中国沿岸の海上交通が多様化し、その拠点として台湾が注目されだしたのである。
また、室町時代後期当時は西洋の大航海時代真っ只中であったため、台湾島が航海において非常に戦略的重要性を担うことが認知されつつあり、スペインとオランダがその領有権を巡って抗争を繰り広げた。これは結果的にオランダが台湾の領有権を持つようになった。なお、ヨーロッパで最初に台湾に到達したのはポルトガル人であり、緑豊かな台湾島を発見した感動を込めて「イーリャ・フォルモサ(Ilha formosa=麗しの島)」と呼んだことから、「美麗島」「福爾摩沙島」といった台湾の雅称が生まれている。
(ただし、「フォルモサ」と名付けられた島は台湾だけではなく、アジア・アフリカ・南米にあわせて12カ所あるとされる)
また、日本においても台湾島への領土的な興味を示す動きがあり、中でも豊臣秀吉は日本国内の統一を完成させた後に1593年に長崎商人の原田孫七郎に命じて台湾にあるとされた「高山国(または高砂国)」に入貢を促す使節を送ったが、あるはずのない「高山国」で交渉先を見つけることが出来ずに失敗している。これ以外にも、1608年に徳川家康が肥前のキリシタン大名有馬晴信に台湾島東海岸を探検させているほか、1616年の長崎代官であった村山等安が台湾に出兵しているが失敗に終わっている。「高山国(高砂国)」の名称の由来は「タアカオスア」の転訛とされており、これは打狗山(現在の高雄市)が訛ったものとされている。
豊臣秀吉の死により朝鮮出兵は失敗に終わるが、結果として明朝は中国大陸東南沿岸の防備を強化するようになり、軍を駐留させ日本からの再出兵に備えた。澎湖諸島および金門島も例外ではなく、官の勢力が伸びたことにより、密貿易商人・海賊らは同地での活動は次第に不利となっていき、それまでの密貿易拠点や海賊の巣窟は台湾島本土へと移っていった。
江戸時代(17世紀~19世紀)
オランダは澎湖の占拠により明軍と抗争したのを契機(1622年)に、台湾島南部に活動拠点を移して本格的な台湾経営に乗り出す。オランダによる台湾統治が開始されると、当時フィリピンのルソン島を支配していたスペインが台湾侵出を企図し、現在の基隆を皮切りに台湾島北方から領有化を進める。両者の衝突は免れない状況であったが、1642年にオランダは艦隊を派遣してスペイン人を台湾から駆逐した。これによりオランダは台湾を植民地にすることに成功する。
オランダによる台湾統治が行われている一方で、中国大陸では1644年に李自成の乱により明王朝が実質的に滅亡した。これは結果的に満州族の後金(後の清王朝)による中国侵攻を許す契機となり、中国各地では明の皇族を擁立して清に抵抗する数々の勢力が誕生した。その反清勢力のひとつである南明は、福建省沿岸で貿易・海賊活動を行っていた鄭芝龍およびその子の鄭成功(母は日本人)が「反清復明」を旗印に清への抵抗を続けていたが、1662年に鄭成功がオランダを台湾島から放逐して台湾島の開発を行いながら反清の拠点とした。しかし、同年に鄭成功が病没して彼の息子である鄭経が父の遺業を継いだが、反新勢力の一掃を目指す清の猛攻により、1683年に降伏した。
なお、明滅亡翌年の1645年から1674年まで鄭芝龍・鄭成功・鄭経と三代に渡って日本に清への抵抗を目的とした軍事支援を求める使者を送っている。当時国内統一後に鎖国体制を完成させたばかりであった徳川幕府はこの軍事行動に否定的な態度を示し続けために、日本からの軍事支援を引き出すことはできなかった。この一連の軍事支援のことを日本乞師と呼ぶ。
鄭氏政権の崩壊後、台湾は清朝の版図に編入された。しかし、清朝は台湾経営に消極的であり、皇帝の教化の及ばない「化外の地」として重要視されなかった。
このような背景から、日本では鎖国体制が完成していたこともあって日本と台湾は江戸時代の間はほとんど接点がない状況が続いた。
明治・大正・昭和初期(19世紀中期~20世紀中期)
1869年の大政奉還により徳川幕府から明治政府に政権交代すると、新政府樹立間もない1871年に台湾に漂着した日本の漁民が台湾のパイワン族系原住民に殺害される事件が起きる。1874年には明治政府は台湾に派兵する事態となった。いわゆる「台湾出兵」である。これは明治政府最初の海外派兵であり、新政府樹立後に起きた日本と台湾の再接点であった。清朝が台湾を「化外の地」として実効支配していない地域での事件と扱って責任回避をしたために西郷従道主導による報復措置であったが、最終的に清朝が明治政府に賠償金を支払うことで和解した。なお、明治政府では木戸孝允(桂小五郎)が台湾出兵に猛反対し、参議の職を辞任している。
1894年には朝鮮半島をめぐってその宗主権を主張する清朝と朝鮮独立を主張する日本との間で日清戦争が開戦する。日清戦争に勝利したことで、翌1895年には講和会議がもたれ下関条約が締結される。
この講和条約において、清朝は日本に対して1)多額の賠償金の支払い 2)朝鮮独立の承認 3)遼東半島・台湾の割譲 を認め、ここに日本による台湾統治・経営が始まる。なお、下関条約調印後に日本による統治を阻止しようとした動きの中で「台湾民主国」なる独立政権が誕生しているが、わずか148日間しか存続していない。
日本の台湾統治は1895年から終戦の1945年までの約50年間であり、立法・行政・司法・軍事の権限を中央集権化した台湾総督府により行われた。日本の台湾統治は3期に区分できる。
第1期は1895~1915年を指し、武官出身の総督による軍事行動を全面に出した強硬な統治政策であり、武力行使による統治は台湾住民の大きな反発を招き、多大な犠牲者を出している。
台湾統治に頭を悩ませていた日本政府と台湾総督府であったが、児玉源太郎が第4代総督に就任すると内務省官僚出身の後藤新平を民政長官に抜擢し、それまでの強硬政治を踏襲しつつも従来の政策を軟化させた折衷案での台湾統治を進めていく。1902年に抗日運動の鎮圧がひとまず完了すると台湾総督府は日本の内地法を超越した特別統治主義政策を取るようになり、台湾の現状を踏まえた適切な施策を行うようになる。また、後藤は当時台湾で流行していた阿片の撲滅にも成功している。
第2期は1915~1937年で、大正デモクラシーとほぼ同一の時期であり、政党より赴任の推薦を受けた文官出身の総督が歴任している。台湾を内地の延長とし、台湾人を日本国民と見なして同化政策を推進した時期であった。この時期から台湾ではこれまで足踏み状態であった鉄道事業や水利事業にも積極的に着手し、台湾の社会安定のため経済建設に注力した。
第3期は1937~1945年までを指す(武官出身者が総督を歴任)。日中戦争が勃発すると台湾が資源供給基地としての役割を期待されるようになる。また長期化していた戦争により日本本土の人的資源が枯渇したことから、その補充を台湾・朝鮮などに頼らざるを得ないという事情から皇民化政策が推し進められた。
台湾では日本統治を通じて交通・水利などのインフラ整備だけでなく、鉱山開発・公共衛生の整備・農林水産業の近代化を積極的に行った結果、生活水準が向上しただけでなく、農林水産業の生産も飛躍的に増加した。
日本統治時代の評価については現在もなお賛否両論があるが、韓国・北朝鮮と比べるとおおむね肯定的な評価が多い。
また、台湾総督府の後継政権ともいえる国民政府(中華民国)では日本統治については消極的な見解ではあるが、鉄道をはじめとした総督府の遺産ともいえる数々の社会インフラを踏襲し、戦後の台湾経済に影響を与えているのも事実である。
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